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碑の建立に寄せて        芥川 瑠璃子

 龍之介は私の叔父にあたるわけですが、私が十二歳になったとき亡くなっています。憶い出といっても断片的なものです。
 私の母は龍之介の姉で、私は幼い頃から母に連れられて田端の芥川の家によく行きました。作家として多忙だった叔父は、たいてい二階の書斎で原稿を書いていたり、来客中であったりで、滅多に顔を合わせる機会がありません。従兄弟の比呂志、多加志、也寸志などと私の弟晃をまじえてよく遊びました。
 田端の家は、田端駅近くの高台にあり、閑静な場所でものを書くにはいい環境だったと思います。計り知れない縁があり、後年私は比呂志と結婚しましたが、一時期を除き(龍之介没後も)この家で過すことになりました。龍之介に関する種々の話を、叔母文からよく聞きました。また幼い頃から母(ヒサ)にも時折聞かされています。
 この田端の家は、太平洋戦争のとき鉄道官舎として貸し、私たちは神奈川県鵠沼西海岸にある、文の実家があったところに疎開しました。昭和二十年四月十三日、米軍B29の空襲によって、この田端の家は全焼してしまいました。同年同日、奇しくも、学徒動員でビルマに派遣されていた龍之介の次男多加志は、ヤメセン地区で戦死しています。
 なつかしい田端の家や、ともに暮した家族たちのことを、このたび「影 灯籠」(人文書院)に書きました。昭和五十九年「双影」(新潮社)もありますので、殆どこの二冊に種々の憶い出話があるわけです。前述した通り龍之介に関することは、私の断片的な記憶しかなく、長じてその作品などによって、叔父のことを少しずつ理解してゆきました。
 叔父に関する幼年期の印象には、何かつよいものがあります。殊にあの澄んだ眸と謂いますか、ふかくてやさしいのです。だが同時に何かを見通してもいるような眼差しでした。子供心に一種の畏怖を覚えたものです。
 大正三年、二十二歳の龍之介は、大正五年(私の生まれた年)と二回に渉り、この一宮に滞在していたことは、年譜などで知りました。「新思潮」創刊号に「鼻」を発表し、夏目漱石に激賞されたという書簡も残って居り、塚本文に求婚の手紙を書いた事も一宮と知り、ある懐かしさを覚えます。

(故芥川比呂志夫人)

 





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