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芥川龍之介寸描        葉山 修平

 龍之介は一八九二年(明治二五)三月1日に東京市京橋区(現中央区)入船町八丁目に、父新原敏三、母ふくの長男として生まれた。生後八ヶ月ごろ母ふくが精神を病んだため、ふくの実家芥川家に引取られた後、ふくの長兄道章の養子となり、芥川姓を名のることになった。東京府立第三中学校から第一高等学校を経て、一九一三年(大正二)東京帝国大学英文科に入学。第三次「新思潮」に参加して、「羅生門」を発表。一九一六年(大正五)久米正雄、菊地寛らと第四次「新思潮」を創刊し、「鼻」を発表して夏目漱石に激賞された。さらに「芋粥」(一九一六)「或日の大石内蔵助」(一九一七)などを発表して、新進作家としての地位を確立した。大学卒業後、横須賀の海軍機関学校の英語教師となるが、塚本文子と結婚(一九一八)して職を辞し、大阪毎日新聞社員となり創作に専念した。市民文学の代表的作家として数々の名作を生んだが、一九二七年(昭和二)七月二四日未明に田端の自宅で自殺した。「或阿呆の一生」「歯車」「西方の人」などが遺された。
 龍之介の文学を考える上で先ず注意すべきは、母ふくが精神を病んだこと、引き取られた芥川家における生活や文化的雰囲気が、龍之介に与えた影響である。母ふくの精神の病を成長してから知った龍之介が、その屈折した思いから解放されるのは、自殺する前年の一九二六年(大正一五)で、「点鬼簿」の中に「ぼくの母は狂人だった」と書いたときである。幼少年時代の回想風の「少年」(一九二五)の一節で、傷心のとき無意識で母に呼びかけるが、意識はそれを聞き取ることが出来ないという事を書き、母についての隠された真実を告発したい姿勢は見えるものの、際どく避けられている。「大導寺信輔の半生」(一九二五)の中でも、母乳を知らない信輔の不幸と「一生の秘密」について語っているのに、その理由として「母の病弱」をいうが、母の狂気に触れることができなかった。こうした母の秘密を内奥に埋め込めたままの龍之介は、母が身を置いている現実世界を厭悪し、自然主義文学の伝統的な〈告白〉や私小説的な傾向に対する反発ともなり、それらとは別世界の今昔物語に材を得た王朝物や歴史小説に、その文学的出発を求めることになった。そのことはまた、芸術小説ともいわれ「戯作三昧」(一九一七)や「地獄変」(一九一八)にみられる独自の芸術観や「侏儒の言葉」(一九二三〜二七)の中にみられる「人生は一行のボードレールに若かない」という人生観にも繋がるものだった。
 龍之介が芥川家に引き取られて成長したこともこれと無縁ではない。本所小泉町にあった芥川家は、代々江戸城の御数寄屋坊主を勤めた家柄で、礼儀作法に厳しかったが、また家中で一中節に親しみ、芝居見物をするという粋でくだけた半面も持っていた。本所は芭蕉庵や越後屋の寮に光琳なども潜在するなど、江戸時代から世を逃れた風流人士が集まるところでもあった土地柄も反映して、隅田川(大川)とともに、龍之介の精神形成に大きな影響を与えたが、それは「澄江堂雑記」(一九二一〜二四)や「大川」からも窺うことができる。
 つぎに文学的環境と時代的社会的状況に注意したい。龍之介の文学は漱石を母とし、鴎外を父としているといわれるが、これら二人の文学と人生の師があって、いまある龍之介の文学が形成されたといってよい。また後に「芥川龍之介賞」で、その文学を長く顕彰することになる菊池寛や「新思潮」の同人たち、また小説におけるプロットの是非論争を戦わせ谷崎潤一郎や、自らの文学のすべてをかけても及ばないとした志賀直哉の存在、そして室生犀星、佐藤春夫などの知友の存在が、龍之介の文学を形成する力となった。
 だが、龍之介の文学の方向を変えたのは、関東大震災を契機とした社会不安、大正から昭和への変動期にあってプロレタリア文学の出現や前衛文学の擡頭による、近代市民文学を根底から揺るがす状況だった。龍之介が文学的主題として避けてきた〈現実〉と対決しなければならなくなり、「秋」(一九二〇)「舞踏会」(同)「お富の貞操」(一九二二)などに見られるように、それまで嫌悪していた実人生を主題とする傾向をとり、一九二三年からの、いわゆる〈保吉物〉一連の作品も試みられた。
 「河童」(一九二七)に人間社会を劇画化し、「玄鶴山房」(一九二七)で人生の重さに呻吟する老残を描くなど、一九二一年(大正一〇)の中国旅行辺りから見られた健康の衰えに、不眠症や神経衰弱も重なって、その文学世界はき漸く暗く沈んだものとなっていった。
 こうしたことは、これまで〈下町の情緒〉に心情的に身を置きながら、〈西欧的知性〉に生の方向を目指してきた龍之介を、「神々の微笑」(一九二一)で日本的美学と西欧の知性の問題を考えさせることにもなり、「おぎん」(一九二二)で、無信仰のために地獄に落ちた両親を救うために神を捨てた〈転びキリシタン〉を描くことで、龍之介の生と文学が志向していた西欧的知性の敗北を認めている。
 もはや紙数の余裕もない。ここで「芥川龍之介論」の著者であり、日本近代文学研究の権威三好行雄の言葉をかりてまとめとしたい。「芥川龍之介は、白樺派の諸作家とともに大正期の市民文学を代表する作家であり、歴史小説に新しい領域をひらき、わが国の短編小説に様式的完成をもたらした。晩年は時代の動向にうながされて文学の動揺を生じ、自殺した。近代知識階級の命運を身をもって担った作家と目されている」。こうしてその死は、ようやく完成し爛熟した近代市民文学の終焉を意味していたのである。

(作家・駒沢短大教授)

 





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