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芥川龍之介と一宮       鳥海 宗一郎

 芥川龍之介没して六十四年。残された百篇に余る王朝小説、歴史小説、異国小説、怪奇小説、現代小説、自伝小説など多様な作品は多くの読者に愛され、その光芒はさらに輝きを増している。
 芥川は千葉県九十九里浜の南端、長生郡一宮町に、大正三年夏と五年夏、二回にわたって滞在している。
 一宮町出身の友人堀内徒利器に誘われて、初めてこの町に来たのは大正三年七月二十日、東大英文科の学生で二十三歳のときだった。堀内の親戚筋の家の一間を借りて、約一ヶ月を過ごしている。
 この年、芥川は初恋を経験する。その人吉田弥生は実家新原家の知り合いで、芥川の姉ヒサの幼な友達でもあった。しかし家人の反対もあって、この恋は実らなかった。
 大正五年二月、芥川一高時代からの友人久米正雄、菊池寛らと第四次「新思潮」を発刊、その創刊号に「鼻」を発表し、夏目漱石の激賞を受け、文壇の注目を浴びた。
 七月に東大英文科を二番の成績で卒業した芥川は、「新小説」の九月号に執筆依頼を受け、「芋粥」を八月十二日に脱稿、十七日に久米正雄と一宮海岸へでかけた。友人の紹介で、一宮川が海にそそぐ手前、一宮橋の畔にある旅館「一宮館」の離れに、九月二日まで滞在している。
 そして八月二十五日、新しい恋人塚本文(ふみ)に、長い長い求婚の手紙を出した。文は、芥川の府立三中(現在、両国高校)時代の親友山本喜誉司の姪で、父は海軍少佐だったが日露戦争で戦死、弟と二人、母方の実家(喜誉司は母の末弟)に寄寓していた。文は当時十七歳、跡見高等学校の女学生だった。
 芥川は中学時代から山本家に出入りしていたので、文を子供の頃から知っていた。大正五年初めごろの山本喜誉司あて書簡で「僕のうちでは時々文子さんの噂が出る。僕が貰ふと丁度いいと云ふのである」と書き、さらに五月十三日付けでは「僕が文ちゃんを愛していると云ふ事を少しでも文ちゃんに知って貰へたらと思った(略)僕は一切を君にまかせる」と自分の気持ちを吐露している。そして八月二十五日付の一宮館からの長い長い求婚の手紙に至るのである。
  
  文ちゃん。
  僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして、暮らしてゐます。(略)
  僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きま  すが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。    (略)

 愛の告白をした芥川は、この年十二月、文と婚約し二年後の七年二月二日結婚した。
 ところで芥川は、塚本文あてのほか一宮館滞在中に、夏目漱石あてに三通、恒藤恭、谷森饒男、石田幹之助、蔭山芭風あてに各一通、この地での生活ぶりを書き送っている。このうち八月二十八日付、一高時代の友人谷森饒男あての葉書を、一宮館で所蔵している。
 また芥川は師の漱石あての手紙に、書き上げてきた「芋粥」の出来栄えについての不安を、率直に書いている。しかし、同作品を読了した漱石は九月二日、早速一宮館の芥川あてに賞賛の返信を送ったが、その日の夕刻一宮を立った芥川は、この地で、その書簡を手にできなかった。「芋粥」の成功で芥川は流行作家としての地位を得た。
 一宮での青春時代の思い出は、大正十四年に書かれた「微笑」(東京日日新聞・8月)や「海のほとり」(中央公論・9月号)、さらに昭和二年に執筆の「玄鶴山房」(中央公論・1〜2月号)と「蜃気楼」(婦人公論・3月号)などの作品に綴られている。
「微笑」は四百字詰三枚足らずの小品。「海のほとり」は率直な心象的スケッチで、第一章は「里見八犬伝」を読んでいるうちに、うとうとして見た夢の話、第二章は久米と出かけた海辺で二人の少女をめぐる情景、そして第三章は宿の主人から聞いたながらみ取りの幽霊の話。
 「玄鶴山房」は芥川、棹尾の本格的な力作で、死に瀕した主人公の掘越玄鶴の妾(もと同家の女中)お芳の実家が「上総の或海岸」…一宮海岸に設定されている。「蜃気楼」は、堀辰雄が「芥川のあらゆる作品中で最も詩に近い」と評した短編で、サブタイトルが…或は「続海のほとり」とあり、久米との一宮海岸で青春時代を想起する一節がある。
 芥川が大正五年の夏を過ごした一宮館の離れは、芥川荘と名づけられ同館の手で大切に修復保存されている。
 この芥川荘から海浜への道は、美しい松林がつづいているが、かつて芥川が散策し、また文夫人に愛の告白をしたゆかりの地に「芥川龍之介文学碑」が建立されることは、まことに意義深いものがある。

(文芸評論家





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